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「書家とは、いかなる精神、いかなる日常に立脚するべきなのか」。若い頃から私につきまとうテーマのひとつでした。 そんな或る日、 「 「或る時、宋国の元君が絵を描かせたいと思って、多くの画家を召された事がある。御前にまかり出た絵師たちは室外に溢れ出るほど多かったが、皆恭しく敬礼を施し、筆を舐め墨を調和して上意如何にと畏まっていた。すると一人の横着そうな男がのそのそやって来て、碌に礼もせず、さっさと自分の宿に引き下がって行った。 人を使って其の様子を窺わせると、衣を脱ぎ捨て、あぐらをかいて、素っ裸に打ち寛いでいるという。君子曰く、『よし、是れこそ真の画家だ』と。遂に彼が選に当てられた」。これが所謂「 ![]() 青木正児氏の「 ![]() ということになるのでしょう。 「キミ、ボクはね、昔からリベラリストなんだよ」 青山杉雨先生が私にこのように語られたのはいつのことだったか。 日時を確かめるため古い日記をめくってみると、昭和五十年一月十二日謙慎書道会の新年会の日。私は二十八才。今から三十数年も前のことです。 なぜこうなったのか今でもよくわからないのですが、会が終わって青山杉雨先生のお供をして鎌倉七里ヶ浜の有島生馬先生のお宅にお伺いしました。有島武郎の弟、里見クの兄としても知られる洋画家の有島先生はすでに一年前に他界されていました。お宅には奥様とお嬢様の暁子さんがいらっしゃいました。 私はもっぱら奥様の話相手をさせていただきましたが、泉鏡花を「イズミさんが」「イズミさんが」となんども話されまして、はじめのころ誰のことかわからず困惑したことを憶えています。 夜十時頃辞去しましたが、青山先生が「キミ、今日はご苦労だった。よく奥様の話相手になってくれた」とねぎらってくださいました。 鎌倉から東京等々力の青山先生のご自宅までの間、先生は書のことを中心に色々のお話をされましたが、書道界の重鎮で、その後文化勲章を受章されることになる西山寧先生との出会いや、歌人にして書家・美術史家として知られる故人会津八一氏に可愛がられた思い出など印象深いものばかりでした。 そして、なかでも特に強く印象に残ったのが前出の「私は昔からリベラリストだった」という言葉でした。後年、日本芸術院会員、文化勲章受章と、自らの道を極められた青山先生ですが、すでに謙慎書道会の理事長として書道界にその名を馳せ、二十八才の若造の私にとっては、雲の上の存在にも等しい大家でしたが、その大先生が「リベラリストであった」とおっしゃる。 ひょっとしたら今、先生は「 ![]() 写真のスケッチは有島先生が外遊された時、船中でお描きになったものです。青山先生が数枚の中からこの一枚を選んでくださいまして、恐縮しながらも素直に頂戴しました。青山先生も同じ図柄で下辺に外国語が筆写されているものを手にされましたが、当時玄関に額装され飾られていました。 このスケッチを見る度に、あの日の青山先生のお話が鮮明に思い出されます。そして、「リベラリストであること」、「 ![]() 青山先生をお送りしてから、横浜藤棚の師、大島岩山先生のお宅にお寄りして、今日一日のことを興奮さめやらずご報告しました。先生は「よい思いでになるね。スケッチと共に大切にしなさい」と喜んで下さいました。 2003年5月
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