来鶴廬
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蘇州の夜

 中国では中秋の節に出会う人は必ず親朋となると言い伝えられている。
 ちょうど二十年前の中秋節に蘇州飯店の近く、昼間現地のガイドと二人でプラタナスの街路樹が両側に茂る道を歩いていた。

   「あの店いい絵が並んでいるね。」
   「ねだん高い、こっちの方が大きくてやすいよ。」

 そのまま聞き流して夕食をすませてから、空にはまんまるの月が皎々と輝いているなかを昼間見た店が気になってひとり尋ねた。
 運よくあかりがついていて、数人狭い店の中にいて一人は椅子にすわって印を刻していた。その人がその後長く付き合うことになる鍾天鐸である。
 
 
中国スケッチ1
 
 

 請じられて彼と向きあってすわると
   「アンノ先生、半年前そこにすわった」
と言う。差し出された名刺を見ると安野光雅である。日本に来たら尋ねなさいと話された由。彼は日本語を解せず、私は中国語はさっぱりでもっぱら筆談に頼った。

 刻してもらう語句を思案していたが「竹居生」と決めると早速とりかかり、竹の字の長脚の二本が思うようにいったのか、どうだと言わんばかりに鼻をうごめかした。

 書画篆刻を生業としていた。それに鑑定も能くした。篆刻は丁敬にはじまる浙派の流れをくみ、画は八大山人、石涛の風を慕い、蓮花が得意だった。書は特に誰を師承としたかは、明らかにしなかったが、甲骨文、金文から各体に及んで自家薬籠中のものにしており私は自分の非力を愧じた。

 幼少より片足がやや不自由であったため同じ年頃の子どもたちとは遊ばず、年長の書画を嗜む人たちの中にいたことで感性を磨いていったのだろう。

その後数度来日し、そのつど拙宅に立ち寄って親交を深めた。しかし、ここ五年ほど音信が途絶えた。

 月日が過ぎ、今年十年ぶりに中国に行くことになり、蘇州を訪れた。奇しくも中秋節でしかも宿泊は偶然にも蘇州飯店であった。
 ライトアップされた運河を小舟で周遊したあと、ひょっとしたらという気持ちもあって街にでた。プラタナスの街路樹が茂る街並は相いも変わらなかったが、店舗はほとんど新装されていた。

 やはり見当たらずあきらめていたところ通りの反対側に骨董を商う小さな店があって入口の戸を開けた。
奥にいた実直そうな中老の人が椅子から立ち上がって筆談をはじめた。

 仲々感じのよい字を書いたが、それが天鐸さんの風なのでちょっと驚きこれならわかるかもしれないと思った。安の定、鐘天鐸さんを知っていた。足の不自由なこと、父親が医者であったこと、アメリカに渡ったことなど私が知っていることと付合した。 

そして小半時が過ぎ、結局現在どこに居るか、健在なのかは不明であった。五年ほど前、ニューヨークから送られてきたFAXが彼の最後の音信であった。

 そのFAX用紙も長い年月が経たせいかうすくなって読みづらくなってきた。そしてその文面中に「最近天寒地凍」とある。当地の気候のことを言っているのだが・・・・。

 
 
中国スケッチ2
 
 

         
2005年10月 碧巌 

 


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