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久隈守景の納涼図 | ||
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久隈守景作 国宝 『夕顔棚納涼図屏風』 益々この納涼図に感じ入っている。
棚には瓢箪の実がなり、空には大きな月がかかっている。葉が繁り大きな実がたわわになる棚の下にござを敷き、その上に身をくつろがせる夫婦と幼な子が涼をとっている気配である。 襦袢を着て横たわる父親の方は太い細いの変化がつけられた強めの線でたくましい腕を表し、鼻の下にひげをたくわえた顔には精悍な野性味がある。この顔は農夫というより武士の面魂に見えてならない。 腰巻ひとつで座る母親は豊かな肉付きをかくすことがない。なめらかな線描がみずみずしく弾力をはらんでひかれ、少しの力みや無駄がない。 | ||
後方の片腕をぬいだ子どもはキビキビと略描されて何とも凛々しい様をみせている。 夕顔棚の下に身を寄せて涼をとるこの図いっぱいに清爽な空気がただよっている。 この画は狩野派の画家というから驚きだ。 この作者守景は江戸前期の画家で生没年不詳、号無礙齋。狩野探幽門下四天王の筆頭に上げられ師の姪を妻に持つことが許されたほどあつい信任を得ていたが、中年以後になってから江戸を遠ざけられ、加賀の金沢に客遇、晩年はさらに京都に出て、江戸の狩野家とは絶縁状態のまま没したという。 狩野派は江戸時代の初期に絵画界の全国支配網を確立したほどの力を持っているから守景の画家としての立場は推して知ることができる。しかし守景は破門された。 しだいに狩野派内の画法から逸脱するところの守景の自由な作風は硬直しはじめた狩野家の中枢からすれば自家の格式に従わない目ざわりな存在と映ったのかも知れない。 守景の絵はこのほかに何も見ていないので確かなことは言えない。晩年は農民の生活を題材として描いたものが多いという。 |
2007年4月 碧巌
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