来鶴廬
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マーク・ロスコの絵
 
   千葉県佐倉市にある川村記念美術館に出かけた。樹木の多い自然の美しい庭園の中にある。
 そこで未知の画家ロスコの絵にはじめて出会った。ロスコ・ルームには彼の絵だけが七点展観されている。
 
 その入口からすでに他の部屋と違う空気が流れ、極度に照明が落とされていた。
 矩形の画面は二メートルを優に超す大きなものであり、暫し心が動かされ佇んでいた。
 
 バックは暗い朱色や同系色であり、薄塗りの重ね塗りで深みがあった。それに直線がタテヨコにひかれているだけの単純さである。
 
 
 
 
MARKROTHKO
 
 
    
無題  マーク・ロスコ  川村記念美術館蔵
 
 
 ロスコの画集には作品に向かって瞑想する若い女性の姿が写真に載っていて、さもありなんと合点した。ロスコの生涯を略述する。
 
 二十世紀アメリカの代表的画家で帝政ロシア生まれで、ユダヤ迫害を逃れて十才でアメリカに移住、画家を志す。ニューヨークで多くの仲間と交流し、具象画からシュールレアリズムへと進む。
 
 抽象画に不案内である私がなぜ心をゆさぶられたか簡単に言うと東洋的な雰囲気を持っていて、それも抑制された表現であることである。
 
 私は二十代の中頃、十七世紀中国明代末期の倪元璐の書に魅せられた。ロスコに感じたと同じ表現の美しさである。「落墨超逸」とも評される。
 
 次のことは私の勝手な想像である。
 
 元璐の書室は壁面に墨が刷かれて墨香が漂い、大きな卓上には燭台が一基置かれるのみ。
 
 そのほの暗い中で書する元璐の光景である。
 
 書は視覚のみに頼るにあらず、より触覚的と思われる。目に見えない世界を目に見える線で作られる字形に変換して見せてくれる。
 
 書には必ず聴こえてくる響きがあるはずである。
 
 ロスコは「私の作品は抽象画ではない。生きて呼吸している」と言っている
 
 ロスコのいう「生きて呼吸している」とは中国の絵画上で謝赫の提唱した「六法」の第一に置かれる「気韻生動」に通ずる。絵画の奥にあって感動させる要素である。
 
 ロスコの絵にふれて想いは書に馳せる。
 
 私は五十代に入って、それまで元璐にどっぷりつかっていた身が十九世紀清代中期の蒲華の書画に興趣を覚えるようになった。
 
 そうした変遷の中で今ロスコの絵を見て元璐の書に至ったことは元璐はいまだマグマのように私の心底に深く湛えられていることなのか。

                              2011年3月  碧ー 
 
 
 
geigenro
 
 
    
倪元璐   書道グラフ No.12-1970より

 

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